不幸自慢
南雲
俺と姉は黙りこくって一通の手紙を眺めていた。 封筒の中身は一枚の写真であり、そこには見慣れぬ男の文字で短い文章が記されている。汚い文字だな、というのが正直な感想だった。 「馬鹿じゃないの」 姉は一言そう言い、キッチンに置かれた安物のチェストの中身を漁り始めた。 「何してんの」 「灰皿とライター探してるのよ。あんた持ってない?」 「持ってないよ」 俺は呆れて嘆息する。 写真の中では一組の男女が普段着で立っていた。彼等の足元で、まだ小学校にも上がっていなさそうな少女が二人、不思議そうにこちらを見つめている。更にその下に、汚い文字が踊っていた。 結婚しました。 俺は封筒を取り上げて裏返した。同じ筆跡の汚い字で家の住所が書かれている。宛名は俺と姉になっていた。差出人の住所はない。名前もない。 俺はもう一度写真を見た。すました顔で一組の男女と少女二人が写っている。 「貸して」 姉は俺の手から写真を奪い取り、握り潰してクリスタルの灰皿に入れた。同じ様に封筒も丸めて入れる。その灰皿には見覚えがあった。数年前──俺がまだ小学生だった頃に、よく部屋の中を飛んでいた灰皿だ。扉のガラスは粉々に割れても、何故かこの灰皿は絶対に割れなかった。 何でできているんだろう── そんな事を考えている俺の目の前で、姉は何度か失敗しながらも百円ライターで写真に火を点けた。写真と封筒は往生際の悪い態度で、ゆるゆると燃える。 たちまち部屋の中に充満した臭い煙に姉は咳き込み、窓を開くなり灰皿ごと外に投げ捨てた。 灰皿は隣の公園に落ち、ついに砕けた。父の愛用していた灰皿だった。 「あたし、バイト行ってくる」 俺は「うん」だか「ああ」だかとくぐもった返事をしながら、窓を閉めた。 「夜には帰るから。お父さんとお母さんに話しちゃ駄目だからね」 姉はそう言い、用意してあった鞄を引っ掴んで家を出た。 浪人生である俺は特にする事もなかったから、姉が出掛けた後に箒と塵取りを持って公園に出向いた。 砕けた灰皿は、欠片を掃き集め、公園のごみ箱に捨ててあった新聞紙に包んで、そのままごみ箱に捨てた。燃えた写真は、近所の目を気にしながらも公園の周りをうろうろと探してみたが、風で飛んでいったのか何処にも見当たらなかった。 兄と見知らぬ女が写った写真は、こうして消えた。 ここ数ヶ月、兄は行方不明だった。 兄は高校を卒業してすぐに就職し、家を出て社員寮に住んでいた。とにかく金の身に付かない男で、マンションを借りる敷金にするのだと言って貯めていたはずの金で車を買い、その車を一ヶ月でお釈迦にし、その直後に借金をしてまた新しい車を買う──そんな事ばかりしていた。 その原因は欲しい物を何一つ買ってもらえなかった幼少時代にあるのではないか、というのが母の見解だ。俺はその分析を大いに信じている。 兄は父と血が繋がっていない。母の連れ子だったのだ。兄が何か一つでも父の気に食わない事をすれば、家の中を様々な物が飛び交った。そういう時、姉は別の部屋で机に向かって鉛筆を握っており、俺はそんな姉の背中をじっと見ていた。 誰も喧嘩を止めようともしなかった。当時俺は喧嘩の原因など見当も付かなかったし、姉は兄を軽蔑していたのではないかと思う。兄は成績が悪く、姉は成績が良かった。 そう言えば、兄の泣く姿というのを見た記憶がない。母や姉、父の泣き顔すら見た事はあるのに、だ。兄が泣く時、俺と姉はいつも兄と違う部屋にいたのだ。 そんな兄が、数ヶ月前、唐突に結婚すると言い出した。両親はとりあえず相手に会わせろと訴えたが、兄は頑として結婚相手に二人を会わせなかった。相手は在日韓国人の二世で、離婚歴と二人の娘、そして自殺癖を持っていた。 育ててもらった事に感謝はしている。しかしあんた達の言葉で彼女が傷付くのは耐えられない。だから会わない。 兄は電話でそんな事を言ったらしい。 それ以来兄は行方知れずとなり、そして今日、手紙が届いたのだ。 俺はチェストの中から実印と百円ライターを取り出し、家を出た。市役所に行く為だ。 兄はバイクの免許を取る為にこっそりと戸籍を取り寄せ、自分と父の関係を知ったという話を思い出したのだ。 戸籍謄本の写しは怖いぐらい簡単に手に入った。一枚の紙にいくつか記入し、数百円を払っただけだ。頭の薄い受付の男に何の為に必要なのかと訊かれた時は無性に腹が立ったが、「パスポート取得の為です」と唸ったら男は納得した。俺の横では受付の若い女に向かって老婆がずっと何事かを呟いていた。 「私の事を知りたいのよ。なのにどうしてあなたなんかに説明がいるの──」 老婆の言葉を聞きながら戸籍謄本の写しを見た。兄の欄には大きくバツ印が入っており、結婚相手の籍に移った事が書き記されていた。 ああ本当に結婚したのだ、と俺は実感の湧かない感想をこぼした。 父との関係を記す欄には、兄の所には当然のように養子と書かれており、俺の所には長男と書かれている。 「親父が死んだら、この家はお前がもらえると思うぞ」 いつだったか、兄はそう言った。その頃、俺はまだ家の事情を知らなかったのだが、奇妙な印象を受けたので今でも覚えている。 市役所を出て、俺は公園の公衆便所に入った。 そして姉と同じように、家族を証明する紙をライターで焼いた。紙は一瞬で燃え上がり、慌てて手を離すと便器の中に落ちて燃え尽きた。水を流して灰を流す。何故か万引きをしている時のように鼓動が早まり、ライターはゴミ箱に捨てて逃げるように家に戻った。 きっともう、二度と兄には会わない。俺も姉も。たとえ兄の新しい家が何処にあるのかが判っても。姉が結婚しても。母が死んでも。父が死んでも。 姉は夕方には帰ってきて、俺を車に乗せてレストランに連れて行った。 姉は自分で注文したパスタに嫌いなピーマンが入っている事に気付き、それを無言で選り分けた始めた。子供の頃、兄はどうしてもピーマンが食べられず、カーペットの下に隠して父に殴られた事があった。俺はそんな事を思い出したが、姉はそれを覚えているだろうか。 「あのさ」 姉はピーマンを選り分けながら、低く呟く。 「あたし、この間、彼氏と別れた」 「そう」 俺は姉のピーマンを自分のコーンスープに放り込み、掻き混ぜた。俺もピーマンは嫌いだったが、味の濃い他の物と混ぜて食べる克服法を子供の頃に覚えた。ハンバーグに付いているアスパラも同じように放り込む。好き嫌いの激しかった俺はその癖が未だ抜けず、ずっとそんな食べ方をしている。以前付き合った女は、俺の食べる姿を見るのが嫌だと言って別れた。俺はどうしても人と同じ食事を楽しく食べられない。 好き嫌いを言う子は大きくなれません──確かにそうかもしれない。みんな子供だ。俺も、姉も。 姉は同じ口調で喋り続ける。 「子供できてるんだけど、どうしたらいいと思う」 顔を上げると、姉は俺の顔を見ていなかった。俯き、拗ねたような顔でピーマンを選り分け続けている。 「相手の男は何て言ってるの?」 「……相手には言ってない」 「そう」 俺は姉の選り分けたピーマンを取り、またコーンスープに混ぜる。 「姉ちゃんの好きになる男、子育てには向いてないと思う」 「そうね」 姉は伝票を掴み、すっくと席を立った。 俺も姉の後をついて席を立った。全く口を付けないまま掻き乱された料理を残して支払いを済ませ、車に乗る。 姉が故意に運転を誤るのではないかと少なからぬ心配をしながら、俺は訊いた。 「今度からさ、人に家族構成訊かれたら何て答えればいいと思う?」 「……ああ、ちょっと自慢できるかもね」 ちょっと考えるように沈黙して、姉は笑った。 「あたし、『普通』じゃない家庭で育った男、好きよ」 「そんな女、そうそういるもんか」 「狙い目は子持ちの女よ」 そう言えば母は子供の頃に養女に出された身の上だったと思い出して、俺は溜め息を吐いた。 「腹減った」 「そうね」 家では母が夕食を作って待っている。 了
あとがき
あとがき 日常をテーマにした、なるべく短いお話を書こうと思っていたのに、いつの間にかテーマが変わってしまっておりました。私の中にある『日常』は、世の中の何もかもが嫌になるあの一瞬に大きく影響を受けているような気がします。もちろんそんな時間が長々と続く訳ではないのですが、あとから思い返すとそんな事ばかりが思い出されてしまうのです。 人に「お前は幸福か不幸か」と訊かれれば、何となく不幸であるような気はするが、取り立てて困っている訳でもない。そんな話です。 二〇〇二年二月 南雲
もどる