誰かと眠る
南雲
私には一つだけ自慢がある。 人に自慢できるような『自慢』ではない。それは普通の人に取っては――少なくとも私と同じ二十歳ぐらいの女の子達には――当たり前の事なのだが、私をよく知る人は、この『自慢』をすると必ず驚く。へえぇ、あんたがねぇ。そりゃすごいわ、と。 私の自慢は『携帯電話が使える』という事だ。もちろん電話はかけられるし、メールだって送受信できる。もちろんネットもできる。 運悪く私の自慢話につき合わされてしまった、つき合いの薄い人達は当然「何故そんな事が?」と首をかしげる。が、そうなるとまた、これまた運悪く同席している私をよく知る人が「それがこの子ったらね」と私の事を話し始めるのだ。 実は、私はビデオの予約録画ができない。どれだけ説明書を読んでも、わからない。CDラジカセやMDは再生ができるだけだ(誰かに設定をいじられていたりすると、それすらできない時もある)。テープやMDに録音するなんて逆立ちしたってできないし、パソコンなんて異世界の存在だ。 機械音痴である事が個性だ、とまで言われている私が携帯電話だけは自由自在に使いこなせるのだから、そりゃあ友人達は驚く。 でも今、その自慢のおかげで、私は泣き出しそうなぐらいに動揺していた。寝坊した朝、家族が私一人を置いて家を出て行く時の気持ちに似ていると、困惑しながらも冷静に感じていた。 さっきから拓也の電話が鳴っている。頼んで頼んで、ようやく買ってもらった携帯電話は、きっかり十分ごとにミッキーマウス・マーチを奏でている。ミッキーマウス・マーチの陽気さと私の気分とはあまりにもかけ離れすぎていて、笑い出しそうになる。もし私が他の機械同様に携帯電話も使えなければ、触らぬ神にたたり無し、という事で、鳴り続ける携帯電話など見向きもせずに普通にしていられたのに。そして、帰ってきた拓也に何気ない顔で「何度も電話が鳴ってたわよ」と言えるのに。 今日は日曜日で、拓也はバイトに行っている。八時を過ぎるまでは帰ってこない。 電話の相手は、しっかりと画面に表示されている。山下和美。 無意識の内に、私はゴミ箱を引き寄せていた。昨日食べた弁当の空き箱をどけて、その奥を探る。 「ごめんなさい、ごめんなさい、怒らないで……」 ティッシュ、爪楊枝、お菓子の空き箱……手探りで探る内に、指先に硬い物が当たった。私は慌ててそれを握りしめて、引っ張り出す。なんだってこんな所に捨ててしまったのだろう。もっと、後から悔やんでもどうしようもない所に捨てれば良かったのに。 「ごめんなさい怒らないでもうしません……」 シルバーリング。彼氏にもらった初めての指輪。 私は今、彼氏ではない男と一緒に住んでいる。 大学に入り、まず化粧を覚えた。高校生の時は、誰が見ても『真面目』な私は、教師の目を盗んでナチュラルメイクをする、なんて技術はなかった。幸い友達に恵まれて、上達は早かった。 離れた目は近くなった。どれだけ櫛を通しても曲がってしまう髪は真っ直ぐになった(こればかりは三ヶ月ごとに一万円以上かかる)。 他人の私に対する評価は一変した。地味で目立たない顔は綺麗な顔に変わった。低い低いと馬鹿にされた鼻は可愛らしい鼻になった。痩せっぽっちで色気のない躰は華奢でスリムな体型になった。 コンパにも参加するようになった。意外にもてた。地方出身という肩書も武器になった。少し方言を出すとそれが『可愛い』らしかった。財布を持たずにご飯を食べられる事も知った。彼氏はすぐにできた。 沢村拓也とは、今年の夏にバイト先のスーパーで知り合った。彼はレジを打っていた。私も彼と一緒にレジに立つ事になった。同い年で大学生、そして彼の下宿先のアパートがバイト先のすぐ近くだという事もあり、よくバイト仲間と仕事の後に遊びに行った。もちろん、私一人で遊びにも行った。泊まる事も多かった。 そんな男友達ならいくらでもいたし、作れた。不思議と、彼氏がいるという事もハンディにはならなかった。でも今は一人もいない。拓也以外は。 シルバーリングを手の中で擦っていた私は、自分の携帯電話の着信音で現実に引き戻された。音を聴くだけでうんざりする。実家からだった。 「もしもし」 電話の内容はわかっている。勉強は大丈夫か、ご飯はちゃんと食べているか、たまにはこっちに帰ってきて。いつも通りだ。 私は大丈夫とか、まあまあとか、同じ様な言葉を繰り返して、その場をしのぐ。 母の言葉に曖昧な相づちを打っていて、窓の外に影が立つのが見えた。シルエットだけで判る。拓也だ。 私は咄嗟に拓也の携帯を取り上げてマナーモードに切り替え、部屋の隅に置いた。そして、母との会話をわざと大きな声でする。 帰ってきた拓也は何も言わずに、笑って手を振る私に軽く手を振り返す。そして電話をしている私には話しかけずに、軽そうなリュックと手袋を無造作に床の上に放り出し、コートを着たまま部屋の中をウロウロし始めた。 「あんまり長く喋ってると電話代もかかるし、隣の部屋の人がうるさがるから、そろそろ切るね」 いつもの文句で電話を締めくくり、私は電話を切った。拓也を目の前にしても、さっきよりは落ち着いていると感じて、少しだけ母に感謝した。 「おかえり」 思いの外、元気な声が出た。作り笑顔も完璧だ――多分。もっとも、拓也は私を振り向きもしないが。 「ただいま。今の、家から?」 「うん」 頷きながら、手の中に指輪がある事に気付き、私は慌てて左手の薬指につけ直す。 拓也は携帯電話を探しながら、 「そろそろ言った方がいいんじゃないか? 学費も送って来てるんだろ?」 「うん……」 私はもごもごと歯切れの悪い返事をする。 私はもう大学生ではない。退学したのだ。ちょうど拓也と知り合ったぐらいの頃だ。 大学の友人達は、中退した時にほとんどが離れていった。住んでいた所も学生を対象に貸し出していた下宿だったので、追い出された。私は住む場所を失い、仕方なくどうにか使えるツテを頼って、人の家を泊まり歩いていた。 拓也の部屋は、絶好の住処だった。下宿生だし、バイトが同じという事もあってある程度の信用もある。そして何より、私と拓也は同室に泊まってもおかしくない関係にある――いや、気にする必要がない関係と言うべきか。恋人同士ではないのだから。 私はわざと話題を変える。 「ねえ、何探してるの?」 「ケータイ。バイトに持って行くの忘れちゃって。見なかった?」 「さあ……鳴らしてみようか?」 二人で耳を澄まして、電話を鳴らす。部屋の隅で、ブーンと携帯電話が震える音がした。 「あっちじゃない?」 携帯電話がある方を指さすと、拓也も気付いたらしく「さんきゅ」と頭を撫でてくれた。手袋をしていたはずなのに彼の手があまりにも冷たくて、私は思わず首をすくめて目をつぶる。 私は頭を撫でられるのが好きだ。いつかそう拓也に言ったら、子供みたいだと失笑されたが、それ以来彼はよく私の頭を撫でてくれる。 拓也は手が大きい。私よりはもちろん大きいし、大抵の男と比べても大きい。それに華奢だ。彼の指が髪の間を通る時、すごく気持ちがいい。 拓也は携帯電話を拾い上げて、履歴を調べる。一番は私のはずだ。 「もしかして、何度も鳴ってた?」 「さあ。音、切ってたんでしょ? 気付かなかった」 拓也は、そうかと納得したように呟いたので、私はほっとした。どうせなら着歴を消去してやるべきだった。 そんな事を考えていて、急に空腹感が襲ってくるのを感じた。根本的な解決にはなっていないのに、目の前の問題を一つ乗り越えただけで元気になるなんて、現金なものだ。大体、自分は指輪をはめていて、たかだか携帯電話の着信ごときでウダウダ言うなんて、自分勝手にもほどがある。 「美樹、ごはん食べた? 俺まだなんだよ」 「あ、私もまだ。どうしよう。外で食べる?」 「作るの面倒だし、そうするか。俺、パスタね。商店街のパスタ屋」 「好きだねー。あのお店、気に入ってるの?」 「女の子の制服がカワイイからな」 ばーか、えっち、とか言いながら拓也の頭を叩いて、財布をポケットに入れる。無理を言って同居させてもらっているのにお金まで出してもらえるほど私の心臓は強くない。 拓也は私と外出する時は手袋をしない。それは、彼が手をつないで歩くのが好きだからだ。つないだ手を拓也のコートのポケットに入れて歩きながら、私は訊く。 「明日は大学?」 「休む」 拓也の答えは簡潔だった。そうか、明日は休みか。ふーんと馬鹿のように納得する私に、彼は言う。 「バイトは夕方からだから。のんびりするか」 「うん」 私は従順に頷く。 その日は二人でカルボナーラとペペロンチーノを食べて、デザートのシフォンケーキを食べながらお店の女の子について批評をした。二人で手をつないで帰宅し、二人で並んで薬を飲んで、それからお風呂に入って、一回だけセックスをして眠った。 * * * * * 下着の中がかゆい。 その事に気付いたのは、二週間とちょっと前の朝だ。 既に拓也と半同棲の状態ではあったのだが、あまり毎日お世話になるのも悪いし、拓也が女を連れてくる事もあるので、その日は別の男の家に泊まっていた。 今考えてみれば、私もその男も馬鹿だった。男の方は私の訴えを勘違いしたらしく、すぐに抱き寄せられてベッドに逆戻りした。 昼過ぎに足りない化粧品を取りに拓也の部屋に戻ったのだが、やはりどうにも耐え難いので、同じ内容を拓也に訴えると、彼は表情を一変させた。 「馬鹿かお前!」 その瞬間まで、私は拓也が声を荒げる姿なんて想像した事もなかった。彼はどちらかと言うと無感動な性格で、大抵の事では感情を表に出さないのだとばかり思っていた。そんな物事に頓着しない性格だからこそ、私なんかを同棲させてくれているのだと思っていた。 初めて聞く彼の怒声に、怯えるよりも先に呆気に取られて口をぽかんと開ける私に、彼は渋い顔をした。 「お前、持ち金は?」 「……電車で隣の駅まで行って、歩いて帰ってこれるぐらい」 冗談のつもりで言ったのに、拓也は笑わなかった。 「保険証は持ってるか?」 「うん……」 いつも持ち歩くショルダーバッグから保険証を取り出して、隠れるようにかざして見せる。拓也はそれを一瞥して、嘆息したようだった。引き倒すようにハンガーからコートを取り上げ、財布の中身を確認する。 「出かけるぞ」 彼が苛立っているのは明らかだった。 私はどうしていいのか分からず、とにかく頷いた。拓也が怒っている。その事だけが頭の中を占領していた。彼が怒るなんて初めての事で、何を話しかければいいのかも分からず、自転車の荷台に腰掛けて、ただ自分の爪先を見ていた。 一言も口を利かないまま産婦人科につれて行かれ、私は感染症のナントかカントか膣炎だと診断された。拓也は何も言わずに医者から説明を聞き、薬を受け取り、自分の財布から札を出した。 病院を出て、すぐに私の携帯電話が鳴った。私はのろのろと電話を鞄から取り出し、ディスプレイを見て、泣きそうになった。今朝の男からだった。 「ねえ……」 自転車の鍵を外している拓也にどうにか声をかけると、彼は大体の事を察したらしかった。ただ一言「ほっとけ」と言った。淡々とした、冷たい口調で。 「でも……こいつ、彼女……」 拓也は舌打ち一つして携帯電話をひったくる。彼は二、三言の言葉を口にしただけで、私に携帯電話を突き返してきた。もう電話は切れていて、発信音だけしか聞こえなかった。多分もう、この男からは二度とかかってこない。 「他の奴にも、連絡した方がいいのかな?」 まだほとんど何も考えられない頭からそんな言葉を捻り出したのは、彼と一緒にアパートに帰ってきてからだ。 「いいんじゃないの」ようやくいつもの調子に戻った拓也は、途中で買ってきた弁当をつつきながら、言う。「それぐらいの覚悟はしてるだろ」 そうだ、彼はいつもこんな感じだ。何事にも無頓着で、無気力だ。他人の心配なんかしない。だからこそ、彼は私を居候させてくれている。他の男と違って身体は宿代に入っていない。 実は、彼は女を抱くのがそれほど好きではない。最初彼からそんな話を聞いた時は信じられなかったが(と言うか、私はそんな男を見た事がなかった)、同棲に近い状態になって、どうやら本当であるらしいと分かった。 楽ではある。楽ではあるが、つまらないというのも本音ではあった。だから、一週間の半分は拓也のアパートにいたが、もう半分は別の男の世話になっていた。 「ごちそうさま」 弁当を食べ終えた拓也は、鞄から白い包みを取り出し、私に向かって投げつけた。 「それ、薬な。二週間後に再検査だから、それまで飲み続ける事」 「うん」 薬には拓也の分も入っているらしかった。二人で飲めと言う事か。 「あのさ」私の呼びかけに、拓也は唸っただけだった。彼は電話帳をめくっている。「しばらくここにおいてもらえる?」 彼は電話帳から視線をあげた。 薬は二人とも飲まねばならないのだし、もらい物をしている女を泊めてくれる知り合いはいない。なら、ここ以外に私の居場所はない。そう説明すると、彼は不思議な動物でも見るように私の顔をしげしげと眺めてきた。 「それ、正式に居候するって事?」 私が頷くと、彼は再び電話帳に目を戻した。 「いいけど、条件は出すからな」 家賃は折半。タバコは吸わない。男は連れ込まない。朝は大声を出さない(低血圧だから出せない)。映画を観ている時は静かにする(ただし寝てはいけない)。部屋の中の物の配置を勝手に変えない。夜は必ず九時までに帰ってくる事、どうしても遅れる場合は早めに電話を入れるべし――彼はつらつらと条件を並べ立てる。 外泊禁止――彼がその条件を出した時、私は思わず声を上げた。 「ねえ」 口に出してから、思わず口をつぐむ。他の女はどうするの――そんな事、聞ける訳がない。 「……それ、何調べてるの?」 「ああ、これね。保健所」 「保健所?」 思わず聞き返す私に、彼は事も無げに頷いた。ビョーキ持ちの女でも引き取らせるつもりか? 「保健所に電話して何するの?」 「ついでだから、エイズ検査も受けておこうかと思って。美樹も受ける?」 私は頷く。頷くしかない。大体、もし彼が検査で引っかかったら、それは私も感染しているという事になるのだから。 その日の内に彼は保健所に電話をし、予約を取った。検査を行っている日は平日で、私はアルバイト、拓也は大学の講義があったので、彼は大学をさぼり、私は仮病にかかった。 検査から結果が判るには、二週間ぐらいかかるらしい。丁度医者の再検査と同じ頃だ。これで一気にかたがついて丁度いい。 * * * * * 私と拓也はしっかりと朝寝坊をして昼過ぎに起き出し、拓也は夕方からアルバイトに出かけ、私は留守番をした。 拓也は、今日は忘れずに携帯電話を持って行った。山下和美の名前はどうしても頭の端から消えなかったが、携帯電話と私が二人きりにされない限り、その名前は現実味を帯びないのも事実だった。だから一人きりの留守番は、ぬるま湯の中に浸かっているような退屈な時間を過ごす事に他ならない。 雑誌をひっくり返すのにもすぐに飽きて、拓也のコンポでMDをかけながらごろりと横になった。 私は録音ができないので、MDの編集はいつも拓也にしてもらう。希望の曲をリストアップして彼に渡すと、曲数と時間を計算し、きっちりとMDに収まるように編集をしてくれる。 七四分――私のMDに録音できる時間だ。情けない話だが、私はMDを入れ替えることができないので(以前取り替えたら、MDプレイヤーは原因不明の故障を起こした)、同じものを延々と聴く。私はふと、この中に私の快楽は収まりきらないのだと思った。七四分なんていう短い時間では、『耳から得る快楽』ですら収まらない。これでは、丸一日、二十四時間を使ったとしても、私の快楽が収まりきる訳はない。 私は気持ちのいい事を手放したくない。できる事なら、全てを収めて手元に置いておきたい。でも、どうしても収められない、手に入らない快楽だってある。そんな物は、睡眠時間に置き換えてやり過ごす―― もし『あなたの人生の残り時間はこれだけです』と提示されてしまったら、私はそれに何を収めるだろう。決まっている。全て睡眠時間だ。期限付きの女なんか、誰も愛してくれない。仮初めの愛すら手に入らない。そんな世界では、私は生きていけない。 一人でいると眠くなる。不快な眠気だ。テスト前の一夜漬けに似ている。瞼が重たい。でも眠ってはいけないような気がする。ここで眠ってしまったら、私は何か大きな代償を払う事になる。それは大学の単位だろうか。それとも、もっと他の何か―― 眠気を振り払う為に、私は勢いをつけて起き上がった。七時。あと一時間で拓也の仕事は終わる。 急いでコートを羽織り、財布を掴んで外に出る。今から行けば最後の値引きセールに間に合うはずだ。そして拓也のレジを通れば、ここで居眠りをしているよりは、より多くの欲求が満たされるはずだ。 エイズに感染していたらどうしよう。 検査を受けて以来、一人になるとその事ばかりを考えるようになった。もし感染していたら、もう男の人を好きになる事も許されないのだろうか。 そうだ。もし私が感染していたら、拓也も感染しているのだ。そうなったら、拓也は私をどう思うだろう。俺の人生を台無しにしやがってと恨むだろうか。それとも、感染者同士、一緒に暮らしていこうと考えるだろうか。 それがいい。そうなれば、私は拓也を裏切ったりしない。拓也も私を捨てて他の女なんか作ったりできないはずだ。きっと幸せになれる。もう男なんか作らなくていい。酔ったふりや馬鹿のふりをしなくてもすむのだ。いつもそばに拓也がいて―― 不愉快な思考の渦に、思わず舌打ちした。私は卑怯だ。拓也を逃げ場のない状況に追い込んで手に入れたいのだ。不愉快だ。卑怯な事しか考えられない私という存在自体が不愉快だ。 みんなこうなのだろうか。世の中の人間みんなが、こんな感情を持っているのだろうか。それとも、私は人より複雑なのだろうか。 もう考える事自体が億劫で、私は値引きされたコロッケやお寿司をカゴに詰め込む作業に専念する。今日は何も食べたい物がない。だから買う物は何でもいい。拓也が食べたい物を一緒に食べればいい。 一杯に食べ物を詰め込んだカゴを手に、拓也のレジに並ぼうと私は足を早めた。女が多いレジ店員の中で、彼の声はよく通る。背も頭一つ分は高いので、目立つ。だから、どこのレジに入っているのか、すぐに判る。 「は?」 訝しげな声は、確かに拓也の物だった。 男の客が彼の腕を掴んでいた。客相手に乱暴な事もできずに、拓也は困り顔で客を見返している。 その客の顔には、見覚えがあった。以前、この店で働いていたアルバイトだ。ただ、どうしても名前が思い出せない。一度だけ、私は彼と寝た事があった。一度だけだ。少し妙な趣味があったので、二度は世話にならなかった。それだけの相手だ。 こいつが拓也に何を言っているのか、容易に想像がつく。「お前、美樹の何なんだ」――図々しい奴だ。一回寝た女は自分の女か。 私は拓也のレジに並んで、わざと音を立ててカゴを台に置いた。 「ねえ、あんた」 声をかけると、男は慌てて拓也の腕を放した。しかし相手が私だと判ると、その手で私の腕を掴んでくる。殴られる―― 「面倒見てくれるの?」 自分でも驚くくらい毅然とした声が出た。視界がふらつく。立っていられるのが不思議なくらい。目の前にあるはずの男の顔が判らない――丁度いいくらいだ。好んで見たいような顔でもない。 「私、ビョーキ持ちになっちゃったんだけど。面倒見てくれる?」 おすすめ商品だ。あまりに素晴らしい売り文句に、私は失笑しそうになった。そうだ、これはお買い得商品だ。そのつもりさえあれば手に入り、かなり高い確率で裏切る事のない、しかも対抗馬なんて絶対に現れない、お買い得商品。私なら買う。 しかし、男はそうは考えなかったらしい。力が抜けた膝は身体を支えられずに、ぺたりと尻餅をついた。突然放された手が、何故か愛おしく感じられた。 「美樹?」 「……ごめん。大丈夫」 「立てるか?」 まだ足の裏や膝の感覚はおかしかったが、目の前に差し出された手を掴むと、しっかりと立つ事ができた。 拓也は手際よくバーコードを通す。私はずっとその手を見ていた。大きな手がお寿司のパックを掴み、手際よく袋に詰めていく。長い指が小銭を数え、キーを打ち込む。最後にその手が私の頭を撫でて、くしゃくしゃと遠慮なく髪を乱した。 「休憩室で待ってろ」 「うん」 私は単純だ。そう思った。ちっとも複雑なんかじゃない。手を握られれば安心して、頭を撫でられれば喜ぶ。それだけだ。 産婦人科の再検査を問題なくクリアーして、私達は小さな宴会を開く事にした。 幸いにして、拓也に詰め寄ってきたあの男も、誰に何も言う事なく姿を消してくれた。そりゃあまあ、自分が関係を持った女が病気持ちだったなんて言い触らすような馬鹿もそうそういないだろう。 ここ二週間はアルバイトをしているスーパーと拓也の部屋を往復するだけの毎日だったが、外で飲もうという意見はどちらの口からも出ず、部屋での小宴会となった。薬を飲んでいる間はアルコール禁止だったし、二人でベッドにもたれかかりながら飲むお酒はいつになく進み、私は珍しく本当に酔っぱらうまで飲んだ。 眠たくなったらすぐに寝られるし、やっぱり外で飲まなくて良かったねと言いながら、私はもう何杯目か覚えていないコークハイを作る。 「おい。分量おかしいぞ、それ」 「いいじゃない、別に」 拓也の部屋にはいつもお酒がある。カルアミルクとか、ウィスキーとかブランデーとか、知識がなくても飲める簡単なお酒ばかりだ。どうせ酔っぱらったら味なんかわからないし、カクテルなんかまともに作れないからな、というのが彼の言い分だ。 コークハイを一口飲んで、確かにもう味なんかわからないな、と実感した。だから私の口からその言葉が出たのは、不可抗力だった。 「ねえ。私のどこが好き?」 拓也の目がひどく冷静に私の表情をうかがう。多分、私は真面目な顔をしている。真っ赤な顔で。 拓也は無言でウィスキーを注いだ。ウイスキーを入れるには口の大きすぎるグラスの縁から、琥珀色の筋が流れる。それを見ながら、ああ拓也も酔っているんだと私は安心した。 そもそも、拓也は私を好きなのだろうか。もし好きではないのなら、質問の仕方を間違えたかもしれない。 確かに、拓也は女と寝るのはそれほど好きではない。だが、女が嫌いなのではない。大体、拓也は時々女を連れ込んでいる。無論、無関係で返してはいないだろう。このお酒だってその為にあるのだろうし―― 「美樹も、同じだと思ってたんだけどな」 「え?」 考え事をしていて拓也の言葉を聞いていなかった事に気付き、私は慌てて聞き返した。拓也はグラスに氷を入れる。たぷん、と眠たげな音がした。 「俺、男は嫌いなんだよ」 「……私、男は好きよ?」 ばーか、違うって。一頻り笑って、拓也はグラスに口をつけた。そしてニッと笑う。普段はしない笑い方だ。あんたの方が馬鹿みたいじゃない。こっちまで笑ってしまう。 「俺、一人じゃ息ができないんだ」 「寂しがりやねぇ」 抱きしめてよしよしと頭を撫でてやる。拓也の髪は何もしなくても真っ直ぐだ。 しかし、私と拓也は似ているのだろうか。考えてみれば、私はここしばらく一人でいた事がない。でもきっと、私は一人でも生きていける。ただ、その時間に私は息をしているだけだ。深い眠りについて、ただ息をするだけの毎日。 ただ息をしているだけの私と、息が出来なくなる拓也。 私達は似ているのだろうか。 そういえば質問の答えを聞きそびれたなと思い出したが、もう聞く気はなくなっていた。もし拓也が私と同じなのなら、彼を手に入れるのは簡単だ。常にこうして横にいればいい。こうして抱きしめている限り、彼は私から離れない。 そのままキスをしてベッドに入ったが、何もせずに二人で眠りについた。 検査発表の日は検査の日と同じで平日だったので、やはり拓也は講義をサボり、私は仮病にかかった。 結果は、二人とも陰性だった。 私は保健所帰りに寄った喫茶店で、拓也がトイレに入っている間に携帯電話を鞄から取り出した。アドレス帳を開き、男の名前を消していく。もう会うつもりのない男の名前を呼び出し、メニューで消去を選ぶ。『消去します。よろしいですか?』の質問が出たら『はい』を選ぶ。操作は簡単だ。 そろそろ携帯電話を変えようと思っていた頃だし、番号を変えてしまえばかかってくる事もない。後腐れなんかない。 「メールしてるの?」 戻ってきた拓也に訊かれて、私は首を横に振った。 もうテーブルに運ばれてきていたカフェオレに口をつける拓也に、私は携帯電話を操作しながら、言う。 「ねえ。私が大学やめた理由、言ってたっけ?」 「いや」 そりゃそうだ。言ってる訳がない。まだ誰にも話した事なんてないのだから。 「私、二年の時に中退したんだけどさ」 アドレスに残った名前は、十に満たなかった。私は人とのつながりがこんなにも薄いのか。 拓也は特に何を言うでもなく、カフェオレボウルに手を添えて私の話を聞いている。私の前には、レモンティーが置かれていた。 左手の薬指から、シルバーリングを外す。 「私ねぇ、大学入ってすぐ、彼氏できたんだ」 拓也の顔を見ても、彼は表情を変えていなかった。どう言葉を返していいのか迷っているのだろうか。 「同じ大学の奴で、初めての恋人だったんだけど。そいつ、すごい連絡取りたがる奴でさ、そいつのせいでケータイ、使えるようになったの」 それを私は『愛の力』だと公言していた。そうでなくて何なのだ。この私が機械の使い方を完全に覚えたのだ。 「でね、いきなり二股かけられて、振られたの」 口に出して言うと、それはとんでもなく陳腐な出来事のように聞こえた。世の中に有り触れた出来事。 「そしたらさ」 声が笑い出していた。妙に真面目な顔をしている拓也と、自分の表情があまりにも釣り合わなくて、また一層笑ってしまう。 「そしたら、なんでか知んないけど、朝起きられなくなったのよ」 堪えきれなくなって、私は声を出して笑った。 「どうしても朝起きられないから、講義にも出られなくて、ダブったの。だから大学やめたの」 人目も気にせずに私は笑った。静かな喫茶店に響く馬鹿笑いに、店の中の注目が一瞬こちらに向いたが、私は気にしなかった。だって、こんな面白い話があるか。彼氏に振られて、過呼吸になって救急車で運ばれた娘を私は知っている。当てつけで睡眠薬を飲んでそのまま死んでしまった娘や、彼氏の事だけ綺麗さっぱり記憶喪失になったような娘だって知っている。でも、朝起きられなくなった奴なんて見た事がない。そんな間の抜けた話に誰が同情するというのだ。 拓也もようやく笑い出した。そんな事で? 馬鹿だな、お前――そんな事を言いながら拓也は笑った。 私は一頻り笑って、でもまだ苦しくて、レモンティーを一気に喉の奥に流し込んだ。レモンが染み出しすぎていて、すっぱい味が口の中に広がった。 「それだけ。おしまい」 このシルバーリングは、どうしても捨てられなかった。これさえ持っていれば、まだ彼と私はつながっているような気がした。彼の携帯電話から私の番号が消えても、私の携帯電話に彼の番号が残っていれば、何かが起こるような気がしていた。もちろん、何も起こらなかった。 左手の薬指に指輪をつけているだけで、男は簡単に安心した。少し言い寄れば遊びでつき合える女だと判断した。難しいところは他の男に任せて美味しいところだけ頂けます、私はお買い得ですよ――その印だ。 シルバーリングをティーカップの中に落とすと、チリン、と冷たい音がした。スプーンでレモンをすくい上げ、シルバーリングの上に置いて隠す。 拓也は私の一連の動作を見ながら意味もなくカフェオレをスプーンで掻き回していたが、それを一気に飲み干した。 「出るか」 「うん」 二人で勘定を払い、私達は店を出た。あの指輪を見つけた店員はどうするだろう。困って警察に届けるだろうか。それとも気付かずにゴミ箱に捨てるのだろうか。どっちにしても、もう拾いに行くつもりはない。
あとがき
あとがき企画『私の戯言』 第五回 もったいない話をしよう。 最近パソコンの調子がすこぶる悪く、ついにハードディスクを買い換えました。おかげで快適なパソコンになったのですが。 新しい物は容量が四〇ギガ。そりゃあ容量が大きい方がなんだか得した気分にはなりますが、今回のように壊れた時の事を考えると怖くて怖くてデータをため込めません。バックアップを取ろうにもCD−Rはつけていない。バックアップを取る為には一体何枚のフロッピーディスクが必要になる事か! そんな事を言うなら容量の小さいハードディスクを買えよ、と言われるかも知れませんが、最近のお店には大容量のハードディスクばかりが並んでいます。需要があるから供給しても会社が経営を続けていける訳で、その理屈でいくと世の方々は容量の大きなハードディスクを望んでいるという事に。 まったく、こんな世間の皆様はこれだけの大容量を何に使っているのでしょう。 何にしても、自分の書いた小説のみで四〇ギガを使い切るのは無理でしょう。宝の持ち腐れですね。
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