チェロ              弓戸亜朗  愛用の楽器とともに馬車に乗る父を、少年が見送りに出てきた。 「お父さん、今日はどこで演奏するの?」 「今日は王様に頼まれてお城で演奏するんだ」 「へえ……すごいなあ、僕もがんばって練習したらお父さんみたいになれるかな?」  大きな瞳をさらに大きく見開く少年の頭を、父は優しくなでた。 「ヨハンならきっとなれるぞ、でもその前に夜更かしせずに早寝早起きするんだよ。良い子にしていないと精霊に嫌われてしまうからな」 「それは困るな……」  精霊に嫌われると音楽が下手になる、そういう言い伝えがあった。 「わかったら、ちゃんと良い子にしているんだぞ」 「はいお父さん」  父の姿が見えなくなった後、少年はいつも思うのだった。 『あのお父さんでも精霊の姿を見たことがないのに……精霊なんて本当にいるのかな?』      T.  朝焼けの中で、一人の男が目を覚ました。 「子供の頃の夢か……久しぶりだな……」  彼の名はヨハン・モーント、音楽の都と呼ばれるこの国でも一番のチェリストである。  夢に出ていた父はすでに世になく、今は彼が自身の子供に精霊の話を聞かせている。  この国では精霊は音楽と深い関わりがあるとされ、優れた音楽家は“精霊の友人”とも呼ばれる。ヨハンが子供の頃は彼の父が、そして今は彼自身が“精霊の友人”と呼ばれている。  このように人々の言葉の中に精霊は生きているが、約四百年前の大きな戦争以来精霊の姿を見た者はない。ましてや科学の発展した今の世の中では、その存在を疑う者も多くなっている。  そんな世の中で、今でも人々が名前を口にする精霊がいる。戦争で姿を消すまでの間に数多くの芸術家にインスピレーションを与え、絵画や詩、そして音楽にも影響を与えたという精霊、その名を“エーデル”という。  ヨハンの最も得意とする曲はエッシェンバッハという作曲家が作った『幻想舞曲』という曲で、この曲も精霊エーデルに捧げられたとされている。エーデルは舞の名手で、題名に舞曲とついているように、もともとはエーデルの舞の為に作られたのだが、完成した頃に戦争が起き、エーデルも他の精霊同様に姿を消した為、エーデルがこの曲で舞う姿を見た者はいない。  また、ヨハンの所有するチェロはエーデルが宿っていたチェロだと言われており、得意とする曲の事もあって、精霊の中でもエーデルには特別な思い入れがあった。  しかし、そのヨハンも気球が飛び蒸気自動車が走る現代の人間である。エーデルへの思い入れと、精霊を信じるかどうかは別の問題であった。  科学の発展が人々の心に及ぼした影響は大きい。音楽家の扱いについても、それは同じである。  この国で音楽が発展したのは教会の力が大きいのだが、今や音楽は神へ捧げるものではなく、富裕階級の余興に過ぎない。そのような状態では、いくら貴族の音楽会に招かれたところで本当に音楽を愛する者に出会えるとは限らない。  今のヨハンにとって、家族と過ごす時間が唯一の心休まる時間だった。  例え朝方は、他の家以上に慌ただしくても。 「あら、もう起きてらしたの?あなた」  ヨハンを起こしに来た妻、カーリンである。 「久しぶりに子供の頃の夢を見てね……それより、子供達は?」 「ミニョンならさっき起きたところよ」  カーリンの後ろから活発そうな少女が現れた。 「おはよう、パパ」 「おはよう、ミニョン……ミヒャエルはまだかい?」 「お兄ちゃん……まだ寝てるの?今日は日曜だから、ミサでオルガンを弾くんじゃなかった?私が起こしてくるわ!」 「ミニョン!乱暴な事をするんじゃないぞ!」  しかし、ミニョンの足音に続く兄妹の会話は次のようなものだった。 「こらーーっ!起きろーーっ!」  ミニョンの声とともに、何かを叩くような音が聞こえた。 「何するんだ!痛いじゃないか!」 「教会のオルガン弾きのくせにいつまで寝てるの!罰当たり!」 「何だよその言い方は!」 「こんな時間まで寝てるお兄ちゃんが悪いのよ!」  そして、二つの足音が家の中を走り回る事になるのであった。 「やれやれ……カーリン、ミニョンは元気が良すぎるな」 「本当に、私の子供の頃にそっくりだわ」  ふふ、と優しげに微笑むカーリンの言葉は、ヨハンに驚きをもたらすものだった。 「そっくり?君もあんな風だったのかい?」 「ええ、そうよ。よく乱暴すぎるって怒られていたわ」  カーリンの柔らかな口調には、その面影はなかった。 「そうなのか……それでは、ミニョンの将来は大丈夫だとして……私に似て寝起きの悪いミヒャエルはちゃんとした大人になるのだろうか……」 「大丈夫よ、二人とも音楽の才能はあなたに似たもの。きっと素晴らしい音楽家になるわよ」  そうだね、と言いかけたがヨハンの口から出たのは次のような言葉だった。 「素晴らしい音楽家になって……それで、幸せなのだろうか……」 「どうしたの?あなた」 「いや、大丈夫だよカーリン。気にしな……」 「セーゲルハイム侯爵の演奏会が近いからかしら?」  ヨハンの言葉より、カーリンの質問の方が答えに近かった。 「ああ、君の言うとおりだ」  この国において優れた音楽家を呼んで演奏会を開くというのは裕福さを示す行為でもあるため、観客が音楽を愛しているとは限らない。また、音楽家を呼ぶのに馬車なり蒸気自動車なりの迎えを出す行為も同様である。  特にセーゲルハイム侯爵は、音楽を利用しているだけの貴族を代表するような人物だった。いくら観客が音楽を愛していても、主催者が彼であるというだけで気が滅入った。  しかし、演奏をしない音楽家など生活が出来ないだけだし、下手に断れば議員同士の諍いの原因にもなる。  特にこのところ、貴族出身の議員と市民出身の議員の間で意地の張り合いが続いている。 その上、爵位の売買が争いをさらに複雑なものにしているのだ。  革命の後、領地を奪われ生活に困った没落貴族が爵位を売り、裕福な議員や大商人が大金を払って爵位を買い取る。代々の貴族達にはそうやって貴族に加わった者達と同じように扱われたくないという思いがあり、新しく貴族になった者は見くびられたくないという思いからか、貴族らしく振る舞おうと手を尽くす。  貴族出身の議員と市民出身の議員、代々の貴族と新しい貴族、どちらか一方の誘いを断れば不要な争いを招くことになる。自分の芸術と関係ない所で、自分が原因の争いが起きるぐらいなら少々不本意でも誘いに応じて演奏すれば良い。  断れない事情はカーリンにもわかっていた。 「あなた」 「何だい?」 「セーゲルハイム侯爵が音楽に関して無知なのは私も知ってるわ、私が音楽教師をしていた時からですもの。だから、あんなに音楽を知らない人は客席にいても聴いていないのと同じですわ。あなたの音楽を聴いている人にだけ、聴かせればいいのよ」 「ああ、そうだね……ありがとう、カーリン。さあ、僕達もミサへ行く準備を始めようか。ミヒャエルのオルガンも聴きたいし」 「ええ、そうね」  ヨハンは、ミサで心からこの家族のために祈ろうと思った。      U.  ミニョンの夢は作曲家になる事である。出来れば、エッシェンバッハのように長く語り継がれる有名な作曲家になりたいと思っている。  今日も夢を叶えるために、ピアノに向かって新しい旋律を作り出そうとしている、が進まない。  もしかすると、演奏会に行く父の憂鬱そうな姿を見たからかも知れない。あんなに有名な音楽家で、蒸気自動車の迎えが来て、たくさんの観客が待っているあの父が、憂鬱そうな顔をして演奏会に行った……  その事がずっと、気に掛かっていた。  ふと、玄関に向かう人の気配を感じた。 「お兄ちゃん、どこに行くの?こんな時間に」 「教会に行くところさ、ちょっとオルガンの練習をしたくなったんだ」  教会のオルガン、気分転換にはいいだろう。 「ふーん、オルガンねぇ……ちょっと付いていってもいい?」 「は?まあ、いいけど……邪魔にならないようにしれくれよな」 「お兄ちゃんの邪魔なんかしても得にならないわよ」  いかにも生意気な妹の一言を無視して、ドアを開ける。 「さっさと行かないと置いて行くぞ」  置いて行かれてはつまらないので、おとなしく付いていくことにした。  教会に着いたミヒャエルはオルガンを弾き、ミニョンは兄の奏でるオルガンに耳を傾けたり、日の光に煌めくステンドグラスや聖人達の絵を眺めたりしていた。 「お兄ちゃん」  演奏の手が止まる。 「邪魔するなって言っただろ?」 「ちょっとぐらい聞いてよ」 「何だよ」 「お兄ちゃんってさ、オルガンすごく上手だけど……どうして教会のオルガン弾きなんかで収まってるの?もっと有名に……パパみたいになりたくないの?」  演奏を止められた不機嫌以外の何かが、暫しの沈黙をもたらした。 「父さんの……迎えの車に乗るときの顔、見たかい?」 「え?あ、うん……」 「……僕は、観客より神様のためにオルガンを弾く方が好きだな」  それ以上何も言えないミニョンに、オルガンの音だけが降り注いでいた。  オルガンの音の他に、足音が加わったので振り向いた。 「こんな時間まで練習ですか?頑張っていますね」  修道士らしき人物が微笑んでいた。 「あ、パウルさん……ミニョン、修道士のパウルさんだ」 「初めまして、ミニョン・モーントです。兄がいつもお世話になっています」  一人前のレディのように挨拶をする。 「ははは、これはご丁寧に、ミニョンさん。お世話になっているのはこちらの方ですよ。ミヒャエルのオルガンは素晴らしい、神もお喜びでしょう」 「いえ、僕なんかまだまだですよ」  謙遜しつつも、表情には喜びがあふれていた。 「ミヒャエル、練習熱心なのは素晴らしいのですが、もうあたりも暗くなってきました。早く家に帰った方がいいですよ」 「ええ、そうします。ミニョン、帰ろう」 「わかったわ……さようなら、パウルさん」 「お二人とも、お気をつけて」  教会から出ると、夕日がその日最後の光を放っていた。  家に付く頃には、外は夕闇が包んでいた。 「あら、二人とも遅かったわね。ミニョン、ミヒャエルの邪魔をしなかったでしょうね」 「もう、ママったら失礼ね」 「ミニョン、日頃の行いというやつだ。あきらめろ」 「もう、お兄ちゃんまで!」  また朝のように追いかけっこが始まってしまう。 「二人とも、外から帰ってきたんだから手を洗いなさい!」  追いかけっこをやめ、おとなしく手を洗う。 「母さん」 「何?ミヒャエル」 「父さんの演奏会、もう始まってるね」 「そうね……」  何となく憂鬱な雰囲気に、活発な声が入る。 「ママ、パパのチェロはエーデルが宿っていたチェロよね」 「ええ、そうよ」 「エーデルは精霊だから、ちゃんとパパのチェロを聴いてるよね」 「え?ええ、そうよね……そうだわよね」  ミニョンも無邪気に精霊を信じる年齢ではないし、カーリンもその事はわかっている。けれど、エーデルの存在を、心から音楽を愛する存在を信じたかった。 「父さんが帰ってきたら……精霊の話でもしようかな」  ミヒャエルの言葉に、二人がうなずいた。      V.  今日は王家主催の音楽祭である。この日は国内外の優れた音楽家が、この“音楽の都”に一同に集うのである。もちろんヨハンもその中に入っていた。  ヨハンの演奏は音楽祭の最後、この国一番の演奏家の証である。  王家の人々は音楽を深く愛しているため、数日前のセーゲルハイム侯爵の演奏会と違ってヨハンもはりきっていた。  それに、今日はカーリンと子供達も演奏を聴きに行く。カーリンはせっかくの父の晴れ姿を子供達に見せようと思ったのだ。 「もしかすると、王子様と仲良くなれるかも!」 「ばーか、王子にはちゃんと婚約者がいるんだよ」 「冗談よ、冗談」  ミヒャエルとミニョンの口げんかも、何となく明るい雰囲気だった。  ヨハンがこの日、演奏するよう依頼された曲は『幻想舞曲』である。作曲者のエッシェンバッハはこの国を代表する作曲家であり、ヨハンはこの国を代表する演奏家であるからというのがその理由であった。  いよいよヨハンの演奏が始まる、王家の者も、他の者も平等にヨハンに注目する。  ヨハンがふと客席に目をやると、一番前の席にセーゲルハイムがいた。愛する家族より前の席に。  音楽を愛する者より、音楽を利用するだけの者が、音楽を聴きやすい所にいる……  いや、一番近くで聴いているのはエーデルだ。あの日子供達が言っていたように、精霊の存在に疑問があったとしても、今はエーデルが聴いていると思えばいい。エーデルが心地よく舞うために、舞曲を演奏すればいい。  ヨハンの奏でるチェロの音が、空間にあふれていく。幻想舞曲はチェロだけで演奏される曲である。ヨハンはたった一つの楽器で、この空間を支配していた。  ヨハンだけのはずの舞台に、白い影が現れた。あまりに自然に。  はじめからそういう舞台であったかのように、観客達は見つめていた。  誰も、何も言う事が出来ずにただ、ヨハンのチェロと、白い姿の美しい舞に見入っていた。  異国風の……と言ってしまって良いものか、見たことのないような美しい衣装を身につけ、あらゆる文筆家が自分の表現力のなさを感じなければならない美しい存在が、これ以上ない舞を舞っているのだ。ヨハンのチェロにのせて。  やがて、その姿が幾人もの画家によって描かれた姿であることに気付き始めた。  エーデル、現れた白い姿はまさしく精霊だった。  その場にいたすべての者達が、聴覚はヨハンの、視覚はエーデルの虜になっている。  独特の袖と艶やかな黒髪をなびかせて、エーデルは舞っていた。あたかも音楽そのものが、空間に姿をとったように。  演奏と舞が終わった後も、誰もが拍手をする事さえ忘れ、ただ深い感動だけが空間に残されていた。  しばらくして、ヨハンがつぶやいた。 「美しい舞だ……」  エーデルは答えた。 「あなたが心から、この曲を奏でてくれたからです」  そして、会場がどよめき始めた。 観客に一礼し、舞台をおりた後も観客達はヨハンと、エーデルの事しか考えられなかった。何故エーデルが現れたかなど、どうでもよかった。ただ、その美しい舞姿の余韻だけが残っていた。  エーデルの姿は、いつの間にか消えていた。  ヨハン達が家に帰った後、突然エーデルが現れた。 「エーデル?どうして、ここに?」 「私は元々あのチェロに宿っていた精霊、一言お礼を言いたくて……」 「お礼?」 「あのチェロで、美しい音楽を奏でている事。そして誰もが音楽を愛している家に、あのチェロがある事です」  柔らかな微笑みを浮かべ、言葉を続ける。 「私はこの家が気に入りました、ここにいてもいいですか?」 「ええ、もちろん」 「どうぞ、遠慮なさらずに」 「いいよ」 「いいわよ」  精霊の微笑みに、逆らう者はなかった。      W.  精霊エーデルが現れ、ヨハン・モーントの家に住んでいるという事は、国中の誰もが知るようになっていた。  エーデルは普段はチェロに宿っており姿は見せないが、時折ふと現れては音楽を聴いたり、舞を舞ったりしていた。  ヨハンがチェロの練習をしていると、ふいにエーデルが現れた。 「ヨハン、このフレーズはもっとこういう風に弾いた方がいいんじゃないかしら」  と、エーデルは舞った。 「なるほど、こうかい?」  ヨハンはエーデルの舞を音にしてチェロを奏でる。  エーデルの舞がヨハンの演奏に影響を与え、ヨハンの演奏から新しいエーデルの舞が生まれていた。  ヨハンだけでなく、モーント家の誰もがエーデルがいる事で、音楽の楽しさをより深く感じていた。  そんなある夜の事だった。ミニョンは何となく眠れなくて、夜空を眺めていた。 「眠れないの?」 「エーデル?」  見間違いようもなく、エーデルがそこにいた。 「もう夜中よ、何か悩みでもあるの?」 「……私、エッシェンバッハみたいに有名な作曲家になれるかな?」  ふと、美しい顔に不愉快さが浮かんだ。 「エッシェンバッハ……ヴィルヘルムね、最低の男よ」 「最低の男?」  尊敬する作曲家を“最低の男”と言われてしまっては、聞き返さずにいられない。 「ヴィルヘルムは私が舞うために幻想舞曲を書いたと言われているけど、本当は私を手元に置いておきたかっただけなの」 「でも、それは舞を見たかっただけじゃあ……」 「違うわ、彼は私の舞なんて見ていなかった。だから正直、戦争の後に他の精霊達が姿を消した時はほっとしたの。“ああこれで、あの曲で舞わなくてもいいんだ”って」  あまりに意外な話だった。 「あの、それじゃあ……どうしてパパの幻想舞曲では踊ったの?」  エーデルの顔から不愉快さが消えた。 「あなたのパパは本当に音楽を愛しているわ、もちろん幻想舞曲もね。それに、私が最初に舞ったとき、“美しい舞だ”って言ってくれたの。素晴らしい芸術家の奏でる音楽で舞うのは、素晴らしいわ。たとえ幻想舞曲でも」 「そうだったの……」  月明かりに照らされたエーデルを見つめていた。 「ミニョン」 「何?」 「あなたなら、きっと幻想舞曲より素晴らしい曲が作れるわ」 「え、そうかな?」 「そうよ、エッシェンバッハよりずっと音楽を愛しているもの。その時は、私があなたの曲で舞ってもいいかしら?」 「ええ、いいわ!私も頑張る!」  有名ではなくても、素晴らしい作曲家になりたい……  ミニョンは、そう思った。  モーント家だけでなく、ほとんどの人々が精霊エーデルの出現を喜んだ。しかし、エーデルの存在を快く思わない者達もいた。 「法王は何と?」 「人に取り憑いて苦しめた事も、悪魔払いをされたという記録もないので、精霊と悪魔は別のものである、との事です」 「だが、姿を消したり急に現れたりするそうではないか。神でもないのにそのような事をするものは悪魔だ。捕らえて審せよ」  審問、とは魔女や狼男を捜した時の拷問の事である。 「しかし司祭様、罪無き者を捕らえ、裁く事が神の意志でしょうか……」 「法王のやり方は甘すぎるのだ、異端者は即刻排除せねばならぬ」 「しかし、消えたり現れたりする者をどうやって捕らえましょう……」  司祭はいかにも古そうな、一冊の本を取りだした。 「戦争以前の古い書物を見ていたところ、このような記述があったのだ」  司祭が指示した部分を読む。 「……なるほど、エーデルはチェロに宿っている精霊ですから、チェロの弦で縛り付ければ身動きがとれなくなるのですね」  司祭が深くうなづいた。 「そうだ、わかったら折を見て実行に移そう」 「実行……ですか?」 「反対なのか?」 「あ……いえ、別に……」  今だけは、従う方が良さそうだった。      X.  ある日、ミヒャエルは教会でオルガンの練習をしていた。 「ミヒャエル、ちょっといいかい?」 「あ、パウルさん。どうしたんですか?急に」 「実は、エーデルの事で話があるのだ」 「……え?」  パウルはミヒャエルの近くに寄り、小声で話し始めた。 「今は司祭が外出中なので話すが、念のため小さな声で……実は、近々司祭はエーデルを異端審問にかけるつもりらしい」 「え?異端審問!」 「しっ!声が大きい!」  もう一度、声をひそめる。 「異端審問……ですか?」 「ああ、そうだ。司祭様は思いこみが激しいからな、下手をするとエーデルがひどい目にあうだろう」 「で、どうすれば……」 「この異端審問は法王様の意志に反しているのだ、だから一応私が法王様に手紙で知らせてあるのだが、もし手紙の返事が来る前に審問が始まってしまった時は力ずくでエーデルを助け出さないといけない。もちろん私も手伝おう、教会の裏口は開けておく」 「……わかりました」 「では、そろそろ司祭様が帰ってくる頃だ、私は失礼するよ」 「はい」  ミヒャエルも、家路を急いだ。  家に帰ったミヒャエルは、家族にパウルから聞いた全てを話した。 「何だって?」 「今時、異端審問だなんて……」 「冗談じゃないわよ!どうする?」  どうしようか、それが一番の課題だった。 「お兄ちゃん、裏口はパウルさんが開けてくれるんでしょ?」 「そうだよ、表はわからないけど……」 「……じゃあ、表が開いていても閉まっていても、パパは表口に回って」 「え?」  一家の視線がミニョンに集まる。 「パパは表口から司祭を説得、パパに注意が引きつけられている間に私とお兄ちゃんが裏に回ってエーデルの所に行く。これでいいんじゃない?」 「そうね、ミニョンの言うとおりにしましょ」 「お前って悪知恵は働くもんな」   「お兄ちゃん、他に案でもあるの?」 「まあ、こんな時ぐらい兄妹喧嘩は控えよう」 「それもそうね」  ともかく、エーデルを守りたかった。  出てはいけない、そういわれていたのに、エーデルは外の明るさに惹かれてしまった。  ふと、不穏な空気が流れた。 「離しなさい!やめて!」  チェロの弦がかけられ、身動きがとれなくなった。 「お兄ちゃん、エーデルは?」 「え?」 「ピアノを弾いていたのに来ないの、パパの所にもいない?」 「いないみたいだね、外かな?」 「……危ないわ、パパを呼んで。教会に行きましょう」  言い終わるが早いか、ミニョンは走り出していた。 「離して!何なのよ、一体!」 「始めろ、まず……聖書を読み聞かせるのだ」  修道士の一人が聖書を読み上げる、もちろんエーデルに変化はない。 「次、悪魔なら火傷をしないはずだ、この焼けた鉄を……」  表口の扉が激しく叩かれた。 「やめろ!エーデルを返せ!」  司祭は手を止め、表口の方に歩み寄る。 「ヨハン・モーントか?」 「ああそうだ、エーデルを返してもらいたい」 「……いいか、ヨハン。今、助けようとしている精霊は、悪魔かもしれないのだ。結論が出るまで少し待ってくれ」 「結論が出るまでに、一体エーデルに何をするんだ!」  司祭とヨハンが口論を続けている間、密かに二つの影が裏口から入り、エーデルの後ろへと確実に近づいていた。  エーデルを縛り付けていた弦の感触が、不意に消えた。 「ミヒャエル、ミニョン!」 「しっ!静かに」  ミニョンが出口を指さす。 「エーデル、ゆっくりこちらに移動して」 「わかったわ」  まだ、気付かれてはいない。 「そうっと……今よ!」  聖堂の扉が閉まる音に、全員が振り返ると、そこにはエーデルの姿がなかった。 「しまった!」  司祭は後を追った。  裏口にたどり着いた三人の目に、郵便局の制服が映った。 「あー、君たちは、この教会の関係者?」 「ええ、まあ……」  ミヒャエルはオルガン弾きをしているので、嘘はついていない。 「じゃあ、郵便受け取ってくれる?法王庁から司祭様宛の手紙」 「はい、渡しておきます!」  これで、本当に助かったのだ。  司祭は法王庁からの勧告で審問を中止し、エーデルは無事に戻ってきた。しかし、ヨハンの気は晴れなかった。 「エーデル……もしかすると、またこの世界から姿を消した方がいいかもしれない、また司祭のような者が現れたら……」 「私なら、大丈夫です。それに……」 「私、エーデルと約束したの!幻想舞曲よりいい曲を、エーデルと一緒に作るって!」  音楽を愛する者の側にいること、それがエーデルの幸せだった。      Y.  エーデルとミニョンが約束した月の夜から何年が経ったのだろう、ミニョンは美しい曲を作り上げた。  エーデルもまた、その曲にあわせて美しい舞を舞った。  『月光舞曲』と名付けられたその曲によって、ミニョンは作曲家として世界に認められた。  しかし、有名になった事よりも、自分が作った曲が多くの人に愛されている事がミニョンにとっての喜びだった。  誰よりも自分の曲を愛してくれる、エーデルの舞とともに。          〜終〜   あとがき「私は見た!」  何とか、私の最後の部誌作品になるであろう小説「チェロ」、完成しました。  いやもう、この小説の何がどうって、ヨハンじゃなくてエーデルの方にモデルがいるのが意外ですね。  本当に見たんです!拍手をするのも忘れる瞬間を!  日にちは六月十六日、時間は……開演が二時半だったから……え〜っと、まあいいです……私だけ見たんじゃありませんよ、満席で補助席まで出たんですから、たくさんの人が見てます。  ネットで知り合った人も同じ日に見てます。と、いうわけでその日の反省点を……  私のペンネームは『弓戸亜朗』ですが、ネット上でも『弓戸亜朗』または『亜朗』、サイトの雰囲気によってはカタカナで『アロー』と名乗っています。  ネット上で知り合った方は、当然私をこの名前のどれかで呼びます。ほとんどの場合、『亜朗さん』と呼ばれます。  で、問題はその日です。場所は京都四條・南座です。相手の方は、目印が「グレーの着物」という事だったので、二十代でグレーの着物をきた女性を見つけて声をかけました。  相手の方のハンドルネームは普通の名前だったので、良かったのですが、私がネットで知り合った『亜朗さん』である事に気付いた彼女は「あ、亜朗さんですか〜!」と、嬉しそうに大きな声でいいました。  場所が場所なので、まわりには「おばさん」ではなく「奥様」や「おばさま」と言った方がいい雰囲気の人がたくさんいる中で、私は『亜朗さん』でした。  ……ちょっと変わった名前の人かと思われたかもしれません。  まあ、色々な方と仲良くなるのは良いことです。たとえ、本名を言い忘れていたとしても。  ま、エーデルの舞姿にはモデルがある、ということで……  それで、エーデルですが、今回エーデルに関しては性別をはっきりさせていません。  というわけで、“彼”とも“彼女”とも言っていません。だから、モデルの人は本当に舞姿限定でモデルなんです。普段は“男の中の男”なので……  まあ、読むときはモデルの事は考えないで読んで下さいね。きっと、私の文章力では彼の舞姿は書けないので……  最後に、文道部を引退した後もきっと自分のサイトなどにちまちまと何か書いていることでしょう。では、アドレスをば… http://alaw.tripod.co.jp こちらの方もよろしくお願いします。 締め切り8時間前 弓戸亜朗